Mar 20, 2011
事業の資金をどこに相談しに行くか
事業者の金をクレジットカードのキャッシング枠やカードローンに充当している人は少なくない。しかし、銀行や地方自治体に相談すれば、それなりの融資制度を紹介してくれる。税の滞納があり、社会保険料の滞納があったりする場合には、なかなか困難だが、事業計画を確実にするようであれば事業の資金を相談してみるのも面白い。会社設立時に専門的なものもたくさんあるので税理士事務所や会計士事務所に相談することが重要です。しかし、個人的な互換性のあるこの問題が発生したときの対処を早くすることはできません。そこで、クラウドを利用した会社設立を支援するサービスがあるそうです。これなら簡単にタイムリーに状況を把握できるため、問題もなく、会社の設立を円滑にできるようでうす。
【スポーツ深層】
薄く雲に覆われてはいたが、その日は暖かかったという。10校が参加して行われた箱根駅伝。といっても20チームが出場し、早大の総合優勝で幕を閉じた今年の第87回大会ではなく、草創期といえる第6回大会でのこと。現在とは異なり、1月6日に熱戦の火ぶたが切られた。1925年のことだった。
1920年に産声をあげ、歴史を誇る箱根駅伝には驚くような逸話が数多く残っており、その最たるものが第6回大会での「人力車夫のごぼう抜き」。いまでは考えられないよう話が「箱根駅伝70年史」(関東学生陸上競技連盟)などに記されている。
舞台は平塚の第3中継所。2区でトップに立った中大がそのまま先頭でタスキをつなぐと、2分14秒遅れて日大が続いた。6位からの大躍進。ところが、その後、日大の4人抜きを演じた選手がエントリー選手とは全くの別人であることが判明する。なんと人力車の車引きだったという。
当時、車引きの強さには目を見張るものがあったようだ。さすがは「脚力を業とする」プロ集団。1920年11月に行われた第8回陸上競技大会のマラソンでは1位から5位(アマチュア規定により失格)までを車引きが占めたほど。70年史には「日大は責任を感じてか、第7回大会は出場をとりやめた」とあり、記録にも本来の選手名の横に、この車引きの名前が残る。どうして選手が入れ替わったのか、定かではないが、その健脚ぶりはプロの“面目躍如”といったところだった。
1924年に開催された第5回大会にはおおらかなエピソードが残っている。9校が出場したのだが、一斉にスタートを切ったのは1人足りない8選手。日本歯科医専の選手が遅刻したためだった。
「70年史」には、「3分後には『なあに、きっと追い付いてみせる』の言葉を残して猛然と鶴見に向かった」とあり、言葉通りに2人を抜き去って7位でたすきをつないだ。
その時々の時世の影響を受けるのも常。戦局が緊迫化した1943年には、箱根駅伝史上“異端”ともいえる大会が挙行された。名称は「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」(第22回大会)。締め付けが厳しさを増していく中で、開催許可を得るために考え出された名目だった。
というのも箱根駅伝は1940年1月の第21回大会を最後に中断を余儀なくされていた。軍需物資輸送などを理由に、東海道が使用禁止となったためで、鍛錬継走大会開催には、箱根駅伝復活への情熱がうかがえる。
思いが実を結び、実現なった第22回大会には11校が参加。「70年史」には「各校ともサイドコーチが乗る自動車のガソリンが入手できないため、OBが自転車で伴走したが、箱根の山上りでは付ききれなかったという」とある。くしくもこの年の10月には最後の早慶戦として名高い野球の「出陣学徒壮行早慶戦」が行われた。(金子昌世)
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【大阪国際女子マラソン】(5)
1993年大会で2位に入った安部友恵(39)=旭化成=は、優勝した浅利純子(41)=ダイハツ=とともに同年8月、ドイツ・シュツットガルトで開催された世界選手権に出場し、銅メダルを獲得した。
「世界選手権は副産物。目標は8位入賞」と考えていた安部にしてみれば望外の結果。だが、帰国後に送られてきたスポーツ紙を手に取り、喜びは吹き飛んだ。当然のことながら、1面を華々しく飾っていたのは浅利。五輪、世界選手権を通じ、日本の陸上選手として初の金メダリストとなったライバルと3位の自分とでは、記事の扱いに雲泥の差があった。
「勝負は勝たないと意味がないんだと、そのときに分かったんですよね。だから、次は絶対に勝つと」
94年大会の号砲を2日後に控えた1月28日。大阪・豊中市の千里阪急ホテルで行われた記者会見に、国内招待選手が顔をそろえた。注目は浅利、藤村信子、吉田光代のダイハツ勢、さらに安部とその同僚の朝比奈三代子だった。“舌戦”を仕掛けたのはダイハツ勢。そろって日本記録を大幅に上回る2時間24分台を目標に掲げた。
その場では「いけるところまでついていく」と話すにとどめた安部も、内に秘める闘志では負けていなかった。「言うのは簡単ですから」と応戦したうえで「浅利さんたちが有言実行なら、私は“無言実行”」とやり返している。
「2時間24分で走るといっても、誰かが引っ張らなければそんなタイムは出ない。積極的にいくわけがないと思っていたんです」
一方、「連覇します」と高らかに宣言した浅利だったが、調子は決していいとはいえなかった。世界選手権後は表彰や取材などで十分な休養を取れず、疲労をずるずる引きずった。藤村、吉田という年上の同僚と常に競り合う練習環境も、不調にあえぐ浅利の神経をすり減らした部分はあったかもしれない。
1秒差の激闘の再戦となった94年大会。浅利はスタートラインで隣り合わせになった安部に、1年前の自分と重なる雰囲気を感じ取ったという。「言葉ではうまく言い表せないけど、体から感じる気というか…」。早くも勝者の輪郭が見え始めていた。(敬称略、所属は当時)
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